俺は、君のためにこそ死にに行く

俺は、君のためにこそ死にに行く」を観た。

どこかで見た場面、どこかで聞いた台詞、どこかで知ったエピソード、この映画のすべてをどこかで既に観たような気がする。「ありがち」の一言に尽きる。



静岡東映で18:15の回。客入りは40人ほどとなかなかの入り。



石原慎太郎ならではのなにかを期待していたこともあって、正直肩透かしの印象。



とはいえ、2つ横のまじめ大学生風の兄ちゃんと2列後ろのおばちゃんが泣きっぱなしでびっくりした。兄ちゃんの方はリアルネットウヨク風、おばちゃんは新興宗教婦人部風だった。

映画で泣くっていっても限度があるだろ。1時間以上途切れることなくグズグズグズグズやってるので、かえって不気味なくらいだった。

兄ちゃんの方は女連れで、しかも場内が暗くなっても明るい画面を手で囲ってずっと観てる。本編が始まっても。タイトルが出たところでしまったけど、もしかしたらこれがうわさに聞く「最近劇場内で不法に録音録画をしている人」かと思って気になった。せっかく女連れなのに、ずっとなにかの画面を見てるってのもどうよ?



人によって感じ方はいろいろなんだろうけど、人物がほとんど描かれていないから感情移入が難しい。たとえばアリランを歌った韓国人のエピソードは全部本人の説明台詞。他も似たり寄ったりで、下手すりゃ誰が誰だか分からなくなる。

人物に深みがなく、エピソードはあってもストーリーに起伏がない。一番伝わる場面って普遍の感覚である痛覚を描いた血判の場面じゃないかって気がする。



最初から泣けるように自己暗示をかけてなきゃ泣きようがないと思うのだが・・・。



単にラストシーンの靖国での再会シーンを作って、だから靖国を守りましょう、というプロパガンダをやりたかっただけじゃないの?それすらも「兵隊さんの幽霊」が出てきたんじゃないかと思わせる不気味さ。



さらに生きているほうは年をとって、苦労して、それなりに変化成長しているのに、英霊はまったくそのまま。英霊は決して成長せず、生きている人間に都合のいいときだけ英霊は生きていて、それ以外は死んでいて時間は止まってる、そのご都合主義が実によく見て取れる結果となっていた。英霊を幻覚として、心象風景として描いていた。



そこには靖国は残された者のための施設だというのが唯一のメッセージだろうか?だとしたら慎太郎世代が全滅したら靖国はぶっ壊してもいいってことにならないだろうか。



このあたりを無難な表現にしてメールマガジンを発行する予定。

http://www.mag2.com/m/0000227749.htm