「怪談」

「古い因果応報観念から来る究極の恐怖」



静岡ミラノ2で18:50の回。客入りは20人強。

これだけ宣伝しておいて、ミラノ2公開か!

とはいえ、ミラノ2公開作品にハズレなし、という格言を再認識した。



原作は三遊亭円朝の怪談「真景・累ヶ淵」。

この噺は非常に長く入り組んでいて、現在全編通しで演じることが出来るのは桂歌丸と本作の冒頭で語る講談の一龍斎貞水だけだとか。通常演じられるのは新吉・豊志賀の出会いからお久殺しまで。ところがこの映画では「真景・累ヶ淵」のそれ以上の部分を描いている。

ただし、ひとつまったく描けなかったことがあることを指摘しておきたい。それは「因果応報」という観念の、過去と現代における差だ。

この物語を新吉の浮気による破綻劇と読むことが現代における因果応報論だろうが、円朝の時代はそうではなかったはずだ。

宗悦殺しに起因する孫子の代への祟り、「わたくし」個人にはなんの因もないのに、引き寄せられるように果が襲ってくる、逆らいようのない定めのような、抗うことの出来ない気まぐれで大きな力への畏れ、いわば「親の因果が子に報い」の見世物小屋的な、そういった理不尽な因果応報が染み付いている時代だからこそ味わえる恐怖の物語だ。

新吉の浮気が新吉個人の資質によるものではなく、宗悦に定められたものだと思えば、わが身に置き換えて、自分は誰にどんな定めを与えられたのか、という大いなる恐怖に襲われる。



目による表現が多いから、はっきり言われなきゃ分からないタイプには通じないかも。

泣かない子供の目はCGかなにかで処理してるのかな。あの目は嫌だね。

若夫婦に子供がいる、ごく自然な光景。でもすべてを見通すような目をしていて、そして泣かない。日常から少しずつ、染みるように恐怖がやってくる。

最初の豊志賀の狂い方もそうだし、最後に豊志賀が新吉を抱いててよく見ると新吉が自然じゃないという場面もそう、すべての恐怖を少しずつ時間をかけて染みこませてくる。実に丁寧な仕事だと思う。

来るぞ来るぞ、ほら来たどーん、ってだけが恐怖じゃない。

「累ヶ淵」って標識がマンガっぽいところが最悪だった。あのせいで累ヶ淵の場面すべてがチャチくみえてしまった。