ニセ札〜監督の世界観欠如が映画に及ぼす影響とは

静岡シネギャラリー右側で15:50の回。客入りは14人。

戦後直後に実際にあったニセ札事件らしいんだけど、じゃあラストの公判シーンでのニセ札バラ撒きも実際にあったのかよ!?ねえだろ?
いや、ねえならねえでいいんだ。たださ、リアルを追求したわけじゃないんだったら、なんでこんなストーリーの上っ面を舐めるだけの映画になっちゃったの?そこまでして追わなきゃいけない筋書きでもないだろ?

なんでこんな映画になっちゃったのかを考えると、キム兄こと木村祐一監督の世界観ってものがまるでないからなんだと思う。
もともとこの事件に感銘を受けて作り始めたらしいんだけど、その感銘の源が分かってなかったんだと思う。
終戦直後の混乱期、社会契約論的に言えば国家が国民に対しての責任を果たしていない時期、国民が国家に対して反逆することの何が悪い?このあたりの国家と個人のあり方を問うていた事件のはずなのに、キム兄に国家観や社会観といったものがない、あるいはそれを表に出すことが許されない、その帰結としてこの駄作があると言うべきだろう。


共産主義革命がもっとも近かった時代背景を背負って、特にインテリ層には社会変革への高揚感といったものもあったはずだ。
セットや小道具の時代考証がよく出来ている反面、それがあくまでも作られたもの、用意されたもの感全開で、その時代を生きている雰囲気というものがまるで感じられない。


主人公の倍賞美津子は明らかに従犯なのに、裁判では主犯認定されている。そこが面白さでもあるんだけど、なんかあっさりとスルーされてるし、逃げた復員兵は相当病んでると思うけどスルーされてるし、知的障害者がそのあとどうなってるかとか、農地改革に始まる資本主義の矛盾とか、いろんなことスルーし過ぎ。で、大事なものをぜーんぶスルーして、残ったのが上っ面の筋書きだけ。


役者とスタッフがいいからなんとか見れるものに仕上がってるけど、ご飯に焼き魚の骨を乗せてお茶と塩をかけたお茶漬けみたいな感じ。

いや、拝金主義なんか全然笑い飛ばしてないし。