三内丸山遺跡

いまのゆとり教育ではどう教わってるのか知らんけど、俺が小学生のころには打製石器で狩りをしていた旧石器時代のあとが磨製石器で狩りをしていた新石器時代で、縄文時代になって土器を作るようになって、稲作が伝来して定住するようになったのが弥生時代、そうやって進化してきた、というような感じで教わったように思う。
だから弥生人縄文人が文化的に進化したものだと思ってた。

三内丸山遺跡までは青森駅からバスで20分ほど。新道が出来てルートが変わったらしく、ガイドブック等より30円安い300円。
5000年前前後に1500年続いた縄文時代の集落の遺跡だ。縄文人のくせに定住してる。


日本人がどこから来たか、というルーツは北から来たとか南から来たとか、そのミックスだとか、結論はタイムマシンが発明されない限り出ることはないだろうけど、ただ土着民族である縄文人と渡来人である弥生人とは別の民族だったことは確かなようだ。
のちにそれが蝦夷と朝廷の対立につながる。


だから俺は三内丸山の集落は弥生人に滅ぼされたもんだと思ってたけど、どうも実際はそうじゃないようだ。
今となっては海から離れた小高い丘にある遺跡、最盛期には気温が現代よりも2度高く、海岸線がすぐそこまで来ていて、動物性タンパク質は魚からとっていたという。
しかし寒冷化に従って海岸線が下がり、主食だった栗の木も減り、食えなくなって1500年続いた集落にも終焉のときが訪れた、と。

建築物がいくつか再現されてる。
静岡にも登呂遺跡という世間的に名の知れた弥生時代の遺跡があって、つい比較すると、文化的にはあんまり変わらないよね。再現された遺跡公園としては天地の差があるけどさ。


竪穴式住居は樹皮葺き、土葺き、茅葺きとあったようで、それぞれが再現されてる。
入り口が跳ね戸式になってて、登呂遺跡の竪穴式住居よりよく出来てる。

中はこんな感じ。Welcome to my house!

かと思うと中心部にはこんな大きな庄屋みたいのがあって集会所のように使ってたようだ。これでも竪穴式住居。


高床式倉庫つーのは弥生時代の売り物かと思ってたら既に存在してたらしい。


三内丸山を象徴するこの建造物。

でかい穴が6つ発掘されて、そこにかかった圧力を測定して、その重さから木の高さを推定するとこんな感じになるらしいけど、こう組まれていたのかは不明だそうだ。
使われてる木は栗の木で、こんな大きさの栗の木が存在することは現在では考えられないことから、根本からなにか間違ってるんじゃないか、という説もあるようだ。


発掘現場はあらかた埋め戻されてるんだけど、今でも発掘がされていて、その現場も見れるし、発掘現場をそのまま保存して見学できるようにもなってる。



時遊館から1時間に1回、無料でボランティアのガイドがツアーをやってて、これが50分かかるんだけど、それだけじゃ全然物足りない。
ちょっと想像力があったら、1日いても飽きない場所だ。



縄文文化つーのは石器時代の原始共産主義から、弥生時代の階級社会への過渡期的な段階で、この時代に権力というものが存在したのか、という点にはいくつかの見方がある。
三内丸山でも死者の埋葬には大雑把に3通りあって、住居跡の近くに子どもを埋葬して、集落の入り口から道路に沿って大人を土饅頭で埋葬して、それとは別にストーンサークルで埋葬された跡もある。
だから既に身分や階級があった、という考え方もあるけど、でも敬われたり慕われたりして篤く葬られるってのは、身分や階級とは関係なく行われうるものだと思うんだけどね。

それよりも俺が興味を持ったのは、はるか糸魚川から運んできたヒスイなどの宝物のように見えるものを、「ゴミ捨て場」に捨てていた、という事実。ゴミ捨て場という表現が使われてるんだけど、そのころはモノの価値という概念が存在してなかったんじゃないか、と思う。価値に貴賎がなければ、ゴミという発想もないし、ならば生ゴミと宝石を一緒に埋めるということがあっても理解できる。
物送りというそうだけど、死者が使っていたものを相続せずに埋めていた、このことが搾取や弾圧や奪い合いの形跡が少ない、公平な縄文社会を支えていたのかもしれない。