その枝キリスト教会のキャンドル・ナイト

谷津山の麓にある「その枝教会」(静岡市葵区沓谷1丁目25−5)には初めて行った。というのも、ここはいわゆる単立教会、つまりこの教会だけで一つの宗教法人になってる。だから敷居が高かった、というか特殊な宗教団体である可能性も覚悟してた。
でもホームページを見る限りは普通、むしろセンスのいい教会のようだし、ゴスペルもあるみたいだし。
http://homepage2.nifty.com/sonoeda/
当たり外れ大きそうだと思ってたんだけど、これが大いに当たり。来年もここでクリスマスイブを過ごそう。
受付では教会員の名簿があって、出欠を取ってるような感じ。初めての人は別に名前を書く紙があって、10人くらいは初めての人もいるようだ。

教会の規模としては礼拝堂に80人入っていっぱいいっぱいという感じ。その分アットホームで、牧師さんがゴスペル隊の一員だったり。ゴスペルが終わったら説教壇の影に隠れて着替えてたりしてた。
ゴスペルはガチガチのブラックゴスペルじゃないんだけど、地味にビートが効いてて自然と拍手の出そうな雰囲気。もっともプログラムにきっちり「拍手はキャンドルナイト終了後に致します。ご協力ください」と釘を刺されてた。

ゴスペル隊とは別に聖歌隊がいて、もともと練習して歌う人が合計30人ぐらいいるの。で、それ以外の人が50人くらいだから、全員で歌う「もろびとこぞりて」とか30人に連れられちゃって、この人数で声出して合唱なんて中学校以来じゃね?気持ちいい。

飯野優牧師の説教もいい話だった。
もともと人間は神様に愛される資格はない。聖書的にはアダムとイブの原罪があるし、そうじゃなくても人間には汚い部分、隠したい部分がある。でも、神に遣わされたイエスが十字架にかかり生贄になったことで、その罪の部分が許され、人間は神に無条件で神の大いなる愛に包まれる存在になった。
では神が与える大いなる愛とはなんだろうか。それは「あなたにいてほしい」ということである。誰かに無条件に自分の存在が認められ、存在し続けることを望まれる、だから人は存在出来る。


ここからは俺の私見が混じる。
人は存在するだけで価値がある。ところが競争社会の現代ではどうだろうか。人を認めず先んずることこそに価値を見出してないだろうか。
あるいは企業のリストラ。効率化の正体とは人間にその存在の不要を告知することである。

ビジネスは基本的に社会のためになる。そういう風に社会は作られている。社会のためになることをしたいなら、なるべく大きな非効率を見つけてそれを改善すればいい。大きなパイを取れば分け前も多くなるのが普通だ。そうなっていない例外的なケースを探してビジネス・金儲けはよくないなんて気取っている暇があったら、何かを始めるべきだ。大抵の場合、それで社会はよくなるのだから。

ビジネスをしてお金を稼いで社会のためになろう | rionaoki.net

その善悪は別として金儲けの要点は効率化にあり、金儲けの追求は「お前は要らない」と宣告することである以上、金儲けは大いなる愛の放棄であることは疑いようがない。
人の価値を存在条件にしている今の日本社会において、自分の価値を信じられない人たちはどう生きているのだろうか。

13.手をつなごう
歌詞を書き始めた時点で恥ずかしく、書き上げたらもっと恥ずかしかった。これは曲なんてつけられねぇ、と思い、もし歌になっても相当恥ずかしい説教ソングになるんだろうなぁ・・・・と思いつつ作曲を依頼。出来てきた曲はびっくりするほど臭くない。しかもりえちゃんがカラカラっと歌ったら、なんか奇跡が起きた気がしました。歌ってのは、歌詞だけでもダメだし曲がついても未完成、ヴォーカルまで含めて初めて歌になるんだと教わった貴重な曲です。

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http://www.shamisen.jp/karakara/netabare.html

「手をつなごう」「ここにあなたがいるだけでいい」って素直に言えるようになれますように。
そんなことをお祈りした。本当だよ。


帰り際に山崎パンのケーキ2個をおみやげとしてもらった。
食い物もらったからいうわけじゃないけど、礼拝堂も綺麗だし、窓に反射する光の分、キャンドルサービスも輝いていて、いいクリスマス礼拝だった。