実録・連合赤軍 あさま山荘への道程

「誰のせいでもないのかもしれない」



シネギャラリー右側で18:15の回。客入りは18人。

3時間、全然長くなかった。

社会的なうんちゃらよりも、密室での心理劇がすごい出来。

密室で孤立すると先鋭化する、これは古今東西を問わず繰り返してきた歴史だけど、その過程をここまで精緻に描いたことに価値がある。

一つ一つの「総括」をたっぷりの時間をかけて描いているからこそ見えてくるものがある。

たとえば、はじめは「相手のために」自らの拳を痛めて顔を殴打する。しかしそのうち殴っても拳が痛まない腹を殴り、痛みにくい足で蹴り、最後には刃物。だんだん肉体的にも心理的にも楽に殺せるように自然に移行しているところとか。

心理的な追い込み方も洗脳のテキストを見てるようだった。大声で自己批判を求めて徹底的に「なぜ」を突きつける手法は原始的だけどよく効きそうだ。



ただ森がこういう手法を取ったのは決して洗脳の知識があったからではなく、自らの逃亡歴を覆い隠すための虚勢の余禄であることは明らか。

永田の理屈も全然筋が通ってないけど、強者の庇護の下で大声で通せば支配力を生む。

そして場の空気と言うものが出来、その空気の中で「囚人のジレンマ」、つまり個々の最適な選択が全体として最適な選択とはならない状況(wikipediaより)が生まれる。

そのことが森や永田をさらにエスカレートさせる。



この映画の最後は「結局みんな弱かったんだよ、ヽ(`Д´)ノ ウワワーン」で終わるわけだけど、それは違うと思う。その場その場で行ったのは命がけの選択、それ以上のなにを求められるというのか。

ただ全体としての最適な選択にならなかった、必死で生きるということの極北に迷い込むとこういう末路もありうる、ということだろう。



これは森や永田にしても例外ではない。彼らにしても場の空気に流された存在だ。

必死に生きることを求めて、流れ着いた場の空気に触れたがゆえの罪ならば、必死に生きることすら罪になりかねない。



リンチ殺人は許されない、というのは正論だがこの映画を見てもまだそれしか言えないのであれば、それは不幸なことだと思う。