人は死ぬ

成人の日を挟んだ連休。いい天気なので、たまった洗濯物を片付けた。
同じ敷地内にあるアパートの大家さんの屋敷では親戚らしき人が続々集まってきた。
孫の成人式のお祝いかな?同居してる孫はとっくに終わってるから俺の知らない外孫かな?
そう思って洗濯機をかき回すために外に出た何回目かで、葬儀屋のトラックを見つけた。


ここの大家さん一家とは20年の付き合いになる。
大家のおじいさんもおばあさんも、その頃からおじいさんでおばあさんだった。
孫はガキだったけど、いつの間にか俺を通り越して結婚してたな。
おじいさんもおばあさんも、もう80越えてるはず。最初は普通に生活してたけど、おじいさんがシニアカーを使うようになったのは7-8年前だったか?その頃もおばあさんは歩いてたけど、そのうち急に見なくなって、戻ってきたらもう歩ける状態じゃない。
ここしばらく、おばあさんを見た記憶がない。おじいさんも2-3ヶ月くらい見てない。


俺の周りでは、あまり人は死なないことになってる。
それは親族が少ないってこともあるし、友達が少ないってこともあるし、それぞれが適度に健康的だということもある。もちろん、お医者さんに助けられてる部分もあるんだろう。
俺と縁が切れてから死ぬ人は結構いるし、それなりにおばあちゃんもおじさんも年齢順に亡くしてはいる。


20年来の店子だけど、店子は店子だから特に連絡があるわけでもなく、どうしたものかと思ったけど、取り急ぎお線香を上げに行った。
お寺でお参りする機会は多くても、こういう時にどうしたらいいのか、よく分からん。取り急ぎ駆けつける場合は普段着でもいいことは知ってるんだけど。
今回は、まだ誰も弔問客が来ていないから、前の人を真似するわけにもいかない。


とりあえず挨拶して中に入ると、布をかぶせたご遺体とご対面。
これにいまだに違和感があるんだよなー。俺が育った函館だと、焼いてから通夜、骨壷に焼香だから。
目の前にはロウソクに火が付いていて、香炉に線香が数本刺さってる。脇には線香の束。
粉の抹香も用意されてる。さあ、どうしようか。


普通は焼香つーと、抹香をつまんで額に持って行って香炉にぶち込むんだけど、そういうわけにも行かない。なぜなら、火のついているはずの香炉の抹香がまだないんだから。ここに抹香をぶちこんでも焼香にはならない。
しょうがないから、大事なのは気持ちだと信じて、お寺に参拝するときの手順でやってみる。


頭を垂れる。
線香に火をつけて手で消して香炉に差す。
手を合わせる。
読経。四国遍路でやったように開経偈から回向文までやるのも不自然だと思い、般若心経をつぶやく程度に。宗派も分からんしな。
頭を垂れる。
以上おしまい。まあ、気持ちだから。


で、問題が残った。
どっかに書いてあるかと思ったけど書いてなかった。
あの雰囲気では聞けなかった。


亡くなったのは、おじいさんなのか、おばあさんなのか?
どこが気持ちだよ。