行政に哲学なし

■[地域商業]100億円?

http://d.hatena.ne.jp/warehouse_mgr/20090310/p1

を受けて。

ちょうど今、三遊亭円生の「掛け取り万歳」という落語のCDを借りて来ている。

以前は脇に買い行ったりなにかすると、評判が悪かったんで。
ひとつ町内にいれば、その品物があればそこで買うというわけで、あそこはどうも高いから、なんてんで他へ行ったりなにかすると、イヤな奴だね、ええ?脇町内まで買い物に行きやがった、義理を知らねえ奴じゃねえか、いいじゃねえか、なにも少しくらいのことは我慢をして町内で買い物をすればいいが、どうもあいつはイヤな奴だ、なんてんで悪く言われますので、まぁどうしても自分の間近でものを買うというわけで、顔が効きますから

ツケがたまって大晦日の取立ての話になる。


これからみても分かる通り、旧来の商店街ってのはムラ社会の人付き合いの延長に成り立っていた。江戸時代にはサラリーマンなんかはいないわけで、特に江戸はいうならば住人全員が公務員と自営業。自営業同士で仕事を回しあって成り立ってた社会だ、ってことが落語を聴いているとよく分かる。
つまり、みんなで効率とサービスの悪さのメリットとデメリットを共有しましょう、って社会だったわけだ。効率の悪い社会だから流しの「猫の蚤取り屋」みたいな商売も成り立ってたわけでね。


駿府城下も似たようなものだったはずで、つい最近まで大店法の静岡方式に代表されるような商習慣が残ってたのはご承知の通り。
その延長の静岡ローカルの話なら、浜松駅前が寂れて静岡駅前が賑わっていても素直には喜べない、という内容で以前にエントリを立てたことがあるので、それはそっちを見てもらうにして。

浜松は確かにヤバイが、静岡が持ち上げられると複雑
http://d.hatena.ne.jp/RRD/20090126/p1

ムラ社会が崩壊しつつある現在、旧来型の商店街を「復活」なり「再生」なりさせるのだとしたら、同時にその前提となっているムラ社会も復活させなければならない。
最近よく聞く「商店街の持つ地域コミュニティ機能を利用した(付け焼刃的な)取り組み」みたいのなんかは、まさにその方向性で動いている。


ところが一方で行政はそれとは真逆の、効率性優先の取り組みもしちゃってる。「個人商店は専門家」幻想なんかが、経済合理性を突き詰めた典型例になると思う。
つまり、売るのは専門家だから高コストだけど、専門家が売ることによるメリットが消費者にもある、という発想のこと。独立した個々の商取引としてだけで売買のバランスが取れるようにしよう、って合理的な発想は決して間違っちゃいないんだけどさ、それって大規模商業施設をナメてないか?


だってジャスコの社員だって立派なプロの専門家だろうよ。小規模小売店で働いてましたとか、卸の会社から流れてきましたとか、キャリアと経験を積んだ人も多いだろうし。
俺は学生時代に大きめの個人商店の魚屋でバイトをしてた。旦那さんと奥さんと身内同然のお兄さん、それにトラック乗りから流れてきた人と夕方から俺の5人編成。ところが、跡取りのはずの身内同然のお兄さんがスーパーの鮮魚部に就職しちゃった、それに始まって奥さんがやけどをして店に立てなくなって、あっというまに店をたたんでしまう、なんてのを目の当たりにしてる。
つーか、最近だと郊外に大規模商業施設が出来て、そのあおりで潰れた商店主がその郊外の商業施設で働いてる、ってのをテレビで何回か見たことがある。


じゃあ個人商店と大企業、その専門家同士で競争すればいいじゃないか、個人商店は資金的に難があるから行政でバックアップしますよ、ってことになったとしたら、結局、商店街という名の擬似イオンを作ることになってしまうわけで。


そして中心部と郊外との間で客の奪い合いをしろってか?
「ファンを作っていく」ってのは、よその店から客を奪う、ってことだぜ?パイは一定だぜ?
魚屋で言えば、魚の消費量、人間の胃袋の限界なんかたかが知れてるんだからよ。


え?店の個性で勝負だ?
生活の中で買い物をしたことがある?
アピタの鮮魚売場とイトーヨーカドーの鮮魚売場が全然違うの、分かる?
スーパーだって十分な個性を持ってるぜ?そりゃそうだ、スーパーだって努力してるもん。個人店は個人で努力してるけど、スーパーは現場で個人が努力してると同時に、下手すりゃ全国規模で統括して努力してるわけじゃん。
下手すりゃ同一の店舗内で競争させてたりするしな。片方は量販店的なアプローチで、片方は個人店的なアプローチで。個性の有無なんか個人店の売り物になんかならんぜ?


結局は不毛な消耗戦、その中で文化や人がどんどん切られていく。切られた人をセーフティネットで救いきれるの?
猫の蚤取り屋が商売として成り立つ社会なら、セーフティネットも必要ないのになー、と俺は思うわけよ。


つーか、経済合理性の視点で考えると商売っつーのは需要があるか、供給があるか、そのどっちもがあるかでしか成立しないわけで、どっちもがない場所では成立しないでしょ。そのどっちもがない場所に、経済合理性を目指す方向で地域振興のゼニをいくら突っ込んでもムダだと思うんだけどね。


都会というものが魅力的に見えるような社会であるうちは

薄情もんが田舎の町に
後足で砂ばかけるって言われてさ 
出てくならお前の身内も
住めんようにしちゃるって言われてさ


中島みゆき「ファイト!」)

つーような言動にこそゼニを突っ込むべきなんじゃねーの?


ここで言いたいことは、もちろんムラ社会を強制的に守れということではない。都会が魅力的に見えるような文化によって形成されている今のこの国と、そのような文化を作り上げた消費社会や資本主義について再考し、経済哲学のようなものを持つことが必要なのではないか、ということなので念のため。


まあ、場当たり的にゼニが必要になる小規模商業者を、おエラいさんが蔑視しながら場当たり的な対策でゼニをバラまいてるうちは、どうにもならんとは思うが。
あえて言うなら個人店の強みは、ゼニへの執着心、あるいはこだわりへの執着心なんだ。
つまり、勤め人に対する自営業の強みなんだが、こんなものを勤め人である行政職員には理解出来んわな。