釣り人は冒険家であり、金融は恐喝であり、パチンコはマッサージである

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というエントリを書いたことがある。これは朝日新聞に載ったこの記事を受けてのことだ。
この防波堤をノーヘルでバイクで走ったら、海の上を飛ぶトビウオにでもなった気持ちになれて、さぞ爽快だろう。

釣り人の「不法侵入」が止まらない防波堤がある。神栖市にある鹿島港南防波堤。全長約5キロというその長さで人気を集める半面、大海に突き出ているだけに高波をかぶればひとたまりもない。県の港湾事務所によると、開港から40年間で84人が落下、65人が死亡しているという。

その後にもフジテレビ系列でも取り上げられたらしい。

不法侵入する釣り人は「(入っていけないのはわかっている?)わかってる、しつこいよ!」と語り、釣りざおでカメラをたたいた。
さらに、ある男性は、どこで鍵を手に入れたのか、鍵を持っていた。
鍵を使い門を開け入っていった男性は「(立ち入り禁止では?)そうだよ。(危なくない?)危ない。おたくの言う通りだけど、やっぱりやめられないな。釣りが好きだから」と語った。

http://imona.net/n.pl?,Y0x

そして、とうとう3人死んだ。

 茨城県警鹿嶋署は13日、同県神栖市東和田の鹿島港南防波堤付近で、市内の男性会社員3人が行方不明になったと発表した。発表によると、3人は12日午 後5時過ぎから防波堤付近で釣りをしていたとみられるが、その後連絡がとれなくなった。防波堤の手前に、3人が乗っていた乗用車が駐車してあった。

http://www.asahi.com/national/update/1213/TKY200912130142.html


上空写真では今にも折れそうな頼りない防波堤だけど、実際はこんなに堂々としてるらしい。
この防波堤への立ち入りは禁じられている。なぜ禁じられているかといえば、危ないからだ。
では聞こう。冬山は危ないのに立ち入りが禁止されていない。なぜだろう?なぜ登山家に許されることが、釣り人に許されないのだろうか?
それは釣り人が釣りをする善良な市民だと思われてるからだ。


しかし一部の釣り人の実態は違う。釣り人は、どうしてこんなところにいるんだろう?と思うようなところに普通にいる。
俺なんかも無計画な低山歩きをよくやるけど、たまに迷ってヒヤっとすることがある。「遭難」の2文字が頭をよぎった時、ふと見た険しい崖の下に釣り人がいる、なんてことがある。
一部の釣り人は実践的で優秀な冒険家だ。どんな危険や困難も、釣果で出る脳内興奮物質の前にはなんの障害にもならないのだろう。
一部の釣り人が天秤の皿に自らの命を乗せるとき、もう片方の皿に乗っているのは魚介類の経済的価値ではない。命を危険に晒して初めて感じられる、生きているという実感だろう。


もし世間の目にそんな愚かな天秤が映ったなら、一部の釣り人は冒険家と呼ばれるはずだ。冒険家なんだから危険な場所への立ち入りも許されるべきだ。
しかし魚を釣るという一点で「釣り人」という単語でくくられる以上、彼らは冒険の延長で魚を釣るだけの話なのに、それに無自覚だ。
これが言語で思考をすることの限界だ。言語の定義次第で、実態とは恐ろしくかけ離れた扱いをされていることが多い。


たとえば金融業。
消費者金融に限らず、金融業の実態は恐喝業である。正当な経済活動の延長として資金融通の役割を担っているように見せかけてはいても、実際は金を貸すという合法的な行為で合法的な因縁をつけ、合法的な利息や合法的な回収という形で合法的に奪い取っているだけの話だ。

たとえばパチンコ。
パチンコに負けてる人は、パチンコをギャンブルだと思ってるから負けてるんだよ。パチンコをなくしたいと思ってる衆も、パチンコをギャンブルだと思ってるからいつまでもパチンコをなくせない。
パチンコの実態はギャンブルではない。脳内興奮物質を分泌させるサービス業、いわば脳のマッサージ師だ。マッサージに勝ち負けなんかない。


この世の中で間違ってると思う事象はすべて、その存在が間違っているのではない。その言葉による認識の仕方が間違ってるんだ。
そしてそれは、言語による思考の限界だ。