「京都は日本人の心の故郷」的な感覚が俺に全くない件

日本人は漠然と大和民族という単一民族が、日本列島を単一国家としてずっと支配してると思ってるけど、実際そんなわけはない。これはアイヌをはじめとする先住民族とか、古代に渡来した帰化人とか、最近の在日外国人とかももちろんそうだし、大和民族の中にだって大和朝廷に従わなかった人たちも多い。
こんなのは冷静に歴史を考えれば分かることで、例えば焼津から草薙にかけてヤマトタケルに火を放ったのはいったい誰なんだよ?って話。つーとそれは蝦夷アイヌだろ、と言われそう。以前にも書いたけど静岡にはアイヌに由来する小梳神社があったりもする。


でも蝦夷アイヌってわけじゃない。「えみし」と「えぞ」は明確に違う。

古代の蝦夷(えみし)は、本州東部とそれ以北に居住し、政治的・文化的に、日本やその支配下に入った地域への帰属や同化を拒否していた集団を指した。統一 した政治勢力をなさず、積極的に日本に接近する集団もあれば、敵対した集団もあったと考えられている。しかし、次第に国力を増大させていく日本により、征 服・吸収されていった。蝦夷と呼ばれた集団の一部は中世の蝦夷(えぞ)、すなわちアイヌにつながり、一部は日本人につながったと考えられている。 ただし、蝦夷(えみし)と蝦夷(えぞ)は、別ものである。蝦夷(えみし)と蝦夷(えぞ)は同じ漢字を用いていることから混同されやすいが、歴史に登場する 時代もまったく異なり、両者は厳密に区別されなければならない。

蝦夷 - Wikipedia

乱暴にまとめちゃうと、「大和民族」には朝廷派と反朝廷派がいたわけ。「えみし」には大和民族アイヌ民族とがいたようだ。もちろん他の民族もいただろう。
今の教科書に載ってる歴史は朝廷の歴史であって、反朝廷派の歴史は抹殺されてしまってる。東へ北へと追いやられて行く反朝廷派の征伐に出かけたのがヤマトタケルであり、阿倍比羅夫であり、坂上田村麻呂


で、どうも「えみし」には民族のアイデンティティという概念がなかったらしいのよ。だから大和民族アイヌ民族の交雑もかなり進んだんじゃないかな。その結果、出現したのが渡党なんだろう。
渡党というのは函館がある渡島半島という名前にも残る通り、津軽海峡を渡り歩いた大和民族アイヌ民族のハーフのような集団。

延文元年(1356年)に書かれた『諏訪大明神絵詞』には、蝦夷が、渡党、日の本、唐子の三種に分かれ、渡党は髭が濃く多毛であるが和人に似ており言葉が通じ、本州との交易に従事したと記載されている 。

渡党 - Wikipedia

この渡党は蝦夷の扱いをされていたけど、やがて松前藩の中に組み込まれて行くことになる。日の本ってのは大和民族の中から北へ流れて行った一派なんだろうな。唐子は北方から大陸へのルートを持っていた北方先住民、つまりアイヌ民族じゃないだろうか。


じゃ、この大和朝廷蝦夷との境目がどこなのか、つーとこれは歴史的に明らかだ。
飛鳥時代には阿倍比羅夫が北海道まで乗り込んでるし、奈良時代には白河の関だったんだろうし、平安時代には坂上田村麻呂が作った胆沢城だ。
これとは別に奥州藤原氏や安東水軍なんかも朝廷には従わなかった。北海道が大和朝廷支配下に入るのは蠣崎氏(松前氏)が本領安堵された豊臣秀吉の時代のこと。


延々と何を書きたかったかと言うと、主に東北北海道で育った俺には「京都は日本人の心の故郷」的な感覚が全くない、ということ。俺は京都が好きだけど、落ち着きがありながらどこかポップで彩り豊かな京都の文化を、むしろ見慣れぬ変わったものとして楽しんでる。いうならば欧米人が珍しがるような感覚で見ていると言っていい。
そりゃ京都は歩いて行ける範囲内に、日本史の教科書のかなりの部分が収まってしまう街だもの。1200年前も同じ土を偉い人から有象無象 までが踏みしめ続けてる。
一方で俺が子供の頃に遊んでたのは、下手すりゃ地球ができてからその土を人類が一回も踏んだことがないような山の中とかだもの。特に北海道は室町時代までは和人の支配下にはなかったわけだし。
そりゃあ同じ感覚を持てという方が間違ってる。