覆面の中心で愛を叫んだけもの


タイガーマスクといえば孤児院でプロレスラーで覆面なんだが、同じキーワードで俺が連想するレスラーがいる。
映画「ナチョ・リブレ」のモデルにもなった暴風神父ことフライ・トルメンタである。


フライ・トルメンタはメキシコの元非行少年で、だからこそ非行少年の気持ちが分かる神父になろうと苦労して神父になり、子供たちに慕われていくうちに孤児を育てていくようになる。その費用を稼ぐために正体を隠して覆面レスラーとしてプロレスのリングに上がるわけだ。
多分そのうち「タイガーマスク運動」でフライ・トルメンタを名乗る衆が出てくるよ。


フライ・トルメンタもそうだけど、兼業レスラーの多いプロレス文化圏では覆面レスラーの割合が高い。
善玉悪玉がはっきりと分かれている場合の悪役なんかは特に身元バレするといろいろと不都合があるだろうし、ローカルプロレスの場合なんかは近所の兄ちゃんがリングに上がってるわけで、レスラーとしての有難味に著しく欠ける、なんて理由もある。


ただ、覆面レスラーが覆面である最大の理由はやはりペルソナ効果にあるだろう。
ペルソナつーのは直訳すると仮面つー意味だけど、心理学的には人間の外的側面のことをいう。他人から見える自分のことだ。
普通の人は一人一つのペルソナを持ってるけど、覆面レスラーは自分の本来持っているペルソナの他に、覆面レスラーとしてのペルソナを持つ。そこがレスラーとしての幅につながる。
端的に言えばもう一人の自分に出会えるわけだ。


今回のタイガーマスク運動は、まさにペルソナ効果の賜物。「伊達直人」というペルソナを新たに持つことで、日常の自分ではないもう一人の自分に出会うことに気付いた人が増え始めている。
では、もう一人の自分はなにをしているのか。


タイガーマスク運動の要点は、物質的な奉仕にはない。モノに託されたメッセージにある。
「子どもたちが夢と希望をつかむ一助になればうれしい」
「未来ある子ども達のため」
「少しでもお役に立てばと思います」
「風邪をひかないように頑張って下さいね」
「強くなってね」
「いじめられても、決してくじけるな!」
「かがやかしい未来を祈ります。」
「子どもたちよ夢を持て」
「未来を背負う子供たちの福祉に使って」


子どもの前で「君たちには未来がある」なんてどのツラぶら下げて言えるのよ。
「私は君たちの役に立ちたい」なんて人前で言えるか?
もう一人の自分は、政治家みたいなキチガイでもなければとても真顔じゃ言えないことをサラッと言えてしまうのである。相手を受け入れ、ただ思い、見返りを求めず与えるだけ。
世間はそれを愛と呼ぶ。


タイガーマスク運動は、自分に代わってもう一人の自分が覆面の中心で愛を叫ぶ行為である。
いまこの国の人々は失った愛を見つけ始めた。