ソーシャル・ネットワーク

静岡ピカデリー2で19:00の回と21:35の回。入れ替えがないので2回観てしまった。
客入りは25人ほどと20人ほど。


最近、周りでFacebook をやるのやらないのという話を聞くようになって来たところにこの映画の公開。
ソーシャルネットワークの隆盛を描くにとどまらず、とかく理解と同調を強要されるこの社会にうまく馴染めない未熟な天才、そんなアウトサイダーを等身大で描き切った傑作といえる。



冒頭のカップルの会話、マーク・ザッカーバーグの論理飛躍が端的にそれを表している。
話が飛ぶのは話題を変えようとしているわけでも、興味をなくしたわけでも、わがままなわけでもない。本人にとってはつながってるんだ。
話しながら考え、考えながら話すうちに、思考という物理的制約の薄い行動はしゃべりという物理的制約のはるか先を行くようになる。
そのギャップを埋めようとだんだん早口になり、話を中略し始める。そして聞く者を振り落とし、そのことに気づいた時、喋りを諦める。
だから天才の喋りの多くはエキセントリックに見える。


ましてマークは分別のつかない若者。時に感情的になり、その未熟さと天才の飛躍が渾然一体となり、彼の真意がどこにあるのか、誰にもわからなくなり孤立する。
彼の行動に悪意はあまりない。これが全くないのであれば話は簡単なのだが、多少の悪意があるから信用ができない。
そこにあるのは多少の悪意に過ぎないのだが、結果的に彼と接した人がとるべき行動は直感的に嫌った元カノの行動であり、エンディングは地味ながら究極の悲劇だ。