道民の規範意識について


函館で車を運転していて戸惑うことがいくつかある。


第一に歩行者信号が赤になった瞬間に車用の信号が黄色になること。静岡だと余裕で青信号のうちに行けるタイミングなのに、函館だと余裕で赤信号に捕まることが多い。これは歩行者の多寡によるもんじゃないかな。歩行者が多い静岡で函館のタイミングにしたら、左折渋滞が頻発しそうだ。


第二に函館に来たばかりの人が挙げる運転マナーの悪さの代表例として「同じ車線内で車に追い越される」という、静岡ではなかなか理解されにくい状況というものある。
これは1.8車線くらいの道路があるからなんだけど、このどこを走ったらいいのかよくわからない。
冬場は左に除雪車の残した雪が積み上げられ、右には路面電車の電停があって、その2つが重なるとちょうど1車線分ぐらい残る計算だからなんだと思ってたけど、どうもそれだけじゃない。
電車の走ってないところにもあるし、1.8車線くらいの道路がそのまんま交差点近くで2車線に分かれたりする。


第三に、第二の延長線上にある現象だと思うけど、道路に引いてある線を無視する奴が多い。2車線道路の真中を走る奴も普通にいる。隣の車線にはみ出すなんて当たり前。


こういう交通事情がなぜ起きてくるのかって考えると、よく言われる北海道民規範意識の薄さというものが説明できるんじゃないかと思う。
大前提として法は命を守ってくれない、自分の命は自分で守れ、って要請がある。
冬場の猛吹雪、ホワイトアウトとまでは行かなくても、そもそもどこが道路なのか分からなくなることも珍しくない。自分の走る場所を自分で命がけで決めなきゃいけない。よく道路じゃないところに落ちて死ぬ奴もいるよ。
それが夏場になって道路の線が見えるから従え、って言われても、なにを今さら感が残るだろう。


北海道では国に与えられた規範が何の役にも立たない、そんな経験を幾度となくしている。これは冬場の道路に限らず、エネルギー政策や食料政策にふりまわされた迷走・無責任な放棄なんかもそうだ。
北海道においては、人間が定めた法というものに唯一絶対神のような役割がないし、そんなものを求める奴はとっくに裏切られてエライ目にあってるはずだし、それを目の当たりにしてきている。
だから法というものを盲信せず、その場に応じた生き残りの道を選択する、ある意味人間として当たり前の行動が、法を盲信できる遵法厨からは規範意識の薄さに見えるんだろうね。


悪法も法なり」と言ってソクラテスは死んだ。遵法厨の多い地域では悲惨なことになりそうだ。
でも「悪法も法なり」と言って死ぬ道民はほとんどいないんじゃないかな。その辺が合理的とも言われる道民性にもつながってるはずだ。