三陸2日目

今回の旅の一番大きな目的はある場所を探すこと。
俺は物心がつく前後の4−6歳のほんの一瞬、当時の気仙郡三陸町綾里で育った。そのときに裏の山で不思議な人にあった記憶がある。
いつものように遊んでいると、見たこともないおじさんが現れた。見たこともないような汚いおじさんだった。
このときに、確か誰かと一緒に遊んでいたはずだけど、このときの友達の記憶は一切ない。
そしてこのおじさんは俺達の方を見て、にやっと笑って言った。
「面白いものをみせてあげよう」
そういってポケットの中に手を入れると…数匹の蛇を取り出して差し出したんだ。


どう考えてもヘンテコな記憶だ。
テレビで見たり小説で読んだ記憶が交じってそうだ。そもそも場所もどこだったか、具体的には覚えていない。
全部が現実じゃないのか、一部が現実なのか、もしかすると全部が現実なのか。
その手がかりがほしい、と思ってきたが、なにせ一日数本の汽車を乗り継いで行かなければならない土地、その機会はなかなかなかった。
しかし、これからまとまった休みを、俺のためだけに使える機会なんか二度とないかもしれない。そう思って足を運ぶことにした。

その頃の記憶でいうと、気仙沼は大都会という印象だった。
ちょうどテレビでは「欽ちゃんのどこまでやるの?!」で、気仙沼から番組観覧に来た素人のお姉さんが客いじりの中で田舎キャラが受け、気仙沼ちゃんと呼ばれレギュラー出演するようになった時期だというのに。
確かに大規模な漁師町で、大型船団が並んでいる様はなかなかの見ごたえ。ただあとは、市場併設の「海の市」という観光施設に鮫の心臓が売ってたりとか、見どころはそのぐらいで。


気仙沼港経由で気仙沼駅まで昔ながらの町並みを味わいつつ歩いたはいいが、道に迷って汽車を1本乗り遅れる。汽車が1日数本のこの土地で1本遅れると1日棒に振ることもありえるけど、幸いにして1時間ほどで次の汽車が来る。
大船渡線で盛。青春18きっぷ有効日に限り買えるフリーパスを購入して、盛から三陸鉄道で北上。陸前赤崎のあとの長いトンネル、このあたりから記憶と目の前の景色が一致してくる。
トンネルを抜けていきなり飛び込む「明治屋」の看板。そうだ、駅前の店は明治屋という名前だった。
綾里駅を降りるとその明治屋への下り。店は記憶にある形と違う。建替えたようだ。と思った次の瞬間、その記憶にある形の建物。

そうだ、この建物は診療所だ。この2軒の記憶がごっちゃになってた。
35年前に通った道を降りていくうちに、住んでいた宿舎が見えてきた。

曲がり角には佐々木モータース。そうだ、思い出した。
坂道を登る。手前の家ってもっと坂道の中腹にあると思ってたんだけど。つーかこの坂道、記憶の5分の1くらいの距離しかない。
35年ぶりの宿舎。すっかりぼろぼろだ。裏にあった祠。鳥居はすっかり刻まれてしまって捨てられていた。
裏の畑。相変わらず誰かが使っているらしい。


通っていた綾里保育所へ。

あのころは通うのがりっぱな登山だったのに、今では階段を二またぎぐらいで上れそうだ。
ああ、ここは35年経っても変わってない。建物も、遊具も、水飲みも、駐車場も。


変わったのは遊具に塗られたカラフルな色、そして箱型ブランコがなくなっていることくらい。

カーテンが閉じられた薄暗い体育館。クリスマス会で普段お昼寝をしている教室じゃなくて体育館でお昼寝をした時もこんな感じの暗さだった。場所が変わると眠りが浅いのは今も昔も変わらず、よく寝付けなかったから、所長先生(保育所なので園長先生ではない)が枕もとにプレゼントを配ってた一部始終を見てたっけ。あのときに俺は子供の夢の大半を失ったんだった。
残りの大半を捨てに来た旅の中でそのことを思い出すとはね。


綾里小学校に降りる裏道。

35年前からあったよ、この廃車。

35年前からあったよ、この焼却炉。
綾里小学校も35年前のまま…というには違和感がある。よくみると同じ形に建替えてある。職員室に先生が残っていて、昔の校舎の写真を見せてもらう。


遊具は昔のまま残ってる。この小学校には1年生の1学期しか通ってないけど、多分保育所のころに遊びに来てたんだろう、こっちの遊具の方が印象が強い。タイヤを半分埋めた奴が残ってないけど、うんていも地球型のジャングルジムもそのまま。こちらは色もそのままだった。

もちろんのぼってみた。



ダム好きの血が騒いで綾里ダムを往復。

そこからの帰り道、線路の向こうに夕陽が輝くのが美しかった。写真におさめようと線路沿いに出た瞬間、陸橋が見えた。



そうだ、裏山には鉄道を越える歩き用の橋があった!藪にふさがれて気が付かなかった。
そしてこの鉄橋へ続く道!
ここだ!確かにあった!

ここが蛇を持ったおじさんと会った場所だ。


今さらあれが誰だったか、本当に蛇だったか、確かめる手立てはない。
ただ、記憶の地図では繋がらないこの場所があった、それだけで十分だ。
もう2度と来ることはないだろうし、その必要もない。
今から35年経っても、また今と同じような少しの変化だけでこの町はここに存在し続けることだろう。


三陸鉄道で釜石、山田線に乗り換えて津軽石で下車。