光州5・18
「日本にはない、黒歴史をエンターテイメントに出来る強さ」
静岡ミラノ2で19:35の回。客入りは6人。少ないっちゃ少ないけど、雨も降ってたし、下手すりゃ貸切かと思ってた。
この6人のうちの何人が涙したかは分からないけど、場内が泣いてる雰囲気は客入り6人の映画とは思えなかった。6人ともが明るくなるまで残ってたし、4人は明るくなっても立ち上がる気配もない。
それくらい叩きのめされる映画だ。
なにに叩きのめされるかといえば、まず、巻き込まれる理不尽さに。次に戦いでの無力さに。さらに愛するものの重さに。そして命を輝かせる誇りの美しさに。
決死の決戦を前に故郷に向かって土下座。こっちじゃなかった、向うだ、いや俺の故郷はこっちだけどお前のは向うだ。で、背中合わせで土下座する姿は滑稽、で、振り返ると号泣してるとか、このあたりの笑いで弛緩させて泣かせに持っていくことろは本当に韓国映画に共通する上手いところだし、そんな泣かせ芸には事欠かない。
描写としては残虐さが目に付く。ただ必要な水準での残虐さではある。丸腰の市民への無差別発砲。直前には兵士の人間味が描かれる。これは多くの武力弾圧で記録されている普遍の出来事といってもいい。命令ひとつで人間ではなくなる兵士、それを育てたのが市民軍を率いたアン・ソンギである矛盾。その最期は当初から予言されていた。「暴徒と区別が付かないから送ろう」と。
アン・ソンギの教えは軍の中で通されたのか、途絶えたのか。支配者に都合のいい部分だけ残ったのだろう。
事実を基にしているとはいえ、コミカルなやりとりも交えて恋愛・兄弟愛・親子愛を描いたフィクションであることを忘れてはならない。時々フィクションであることを忘れさせる出来ではあるが、市民武闘派ともいうべき存在に肩入れしすぎたがゆえに、違和感を感じさせる部分も少なくなく、その違和感が「あ、フィクションだっけ」と目覚めさせる役割を果たした。
その最たるものが、「私たちを忘れないでください」という街宣。市民の大多数と「私たち」が乖離している事実をクライマックスに突然突きつけられる。主要登場人物の周りしか描かれていないために、全体がどうなってるのかがまったく分からなかったし、その描写はこのストーリーに都合が悪かったのだろうとも邪推する。
当然のごとく関わったであろうし、特殊部隊を送ったとも言われる北朝鮮についてはまったく触れられていない。
こうした事件の本質は自己を通して散っていった者にではなく、運動に関わり傷つきつつ闘い通さずに生き延びた大多数の者にあるのではないかと思うし、最後に印象的に映された、生き残った者だけが悲しみの瞳で写る写真がそのことを表しているのだろう。
それも黒歴史を直視してエンターテイメントに出来るまで消化できるからこそ描ける境地。
一方で日本人は黒歴史を直視できず逃げ回ってるだけ。
謝罪して逃げる奴、開き直って逃げる奴、無知で逃げる奴、屁理屈で逃げる奴。
その上にくせに「韓国はなにするか分からない、丸腰の自国民を銃撃しちゃうから怖い」なんて書いてるのを見ると恥ずかしいとすら思う。
こういう奴は大正の米騒動で同じように日本軍が丸腰の市民に発砲して30人ほど死んでるなんてことも知らないんだろう。