内藤亀田戦が地上波テレビ放送されるという奇跡

内藤大助、ボコボコにされてたね。亀田興毅の左ストレートが完璧に当たりまくって、最後は文字通り鼻がペッタンコになってた。
確かに鼻の骨がいくら折れても人間は死にはしないけどさ、人間の体があそこまで変形させられる様子を生中継してるわけで、残酷この上ない、という見方もなきにしもあらずも思わないこともない。
少なからずそんな猥雑な雰囲気を漂わせるにも関わらず、ボクシング中継はテレビ地上波でゴールデンタイムに、人気コンテンツとして放送されている。

http://mainichi.jp/enta/sports/general/general/news/20091130mog00m050002000c.html

これは良識国家ニポンにおいて2009年の今日に残った最後の奇跡だといっていい。

http://sankei.jp.msn.com/sports/martialarts/091130/mrt0911301234005-n1.htm

ま、舞台裏はいろいろあったみたいだけど。

俺が好きだった小人プロレスは、俺が子供のころにテレビで出会った瞬間にテレビからは抹殺された。良識派の方々から抗議が殺到したのだという。

小人プロレスラーをテレビで見たのは「朝まで生テレビ」で差別を取り上げたときに、俺たちから仕事を奪わないでくれ、と訴えた角掛仁の姿が最後だった。
小人プロレスラーをマスコミで見たのは、リトル・フランキーの孤独死の記事が最後だった。
小人プロレス同様に良識派が眉をひそめて、今から10年後にボクシングをテレビ地上波で見られなくなっても、俺は驚かない。いや、むしろそれが自然な流れだとも思う。


多くの人がなぜ格闘技にこれだけ魅せられるのだろうか?
それは興奮するからだろう。
ではなぜ格闘技を見ると興奮するのか?
それは嫌でも死を意識させられるからだと思う。

命はもっと・・・ 粗末に扱うべきなのだっ・・・・・・! 命は・・・生命は・・・ 丁寧に扱いすぎると 澱み腐る・・・・!

賭博黙示録カイジ8巻で兵頭会長はそう言った。

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死を意識したとき、人間は本能に目覚める。危機に晒され無防備にむき出しになった裸の命は、なにより敏感だ。
生きるという行為の快感を、死ぬという恐怖よりもはるかに大きく味あわせてくれる。いざとなれば恐怖より大きい快感を得られる、だからこそ人間は生きていける。これこそが本能だ。
この生きるという快感を一度でも味わうと、人は狂う。人生の損得勘定を投げ捨ててでも、生きるという快楽に走る。
生死の境で生きることは麻薬的な快楽だともいえる。


天龍源一郎は「痛みの伝わるプロレス」を標榜している。痛みが伝わったって痛いだけだよな、jk。
でも伝わるものは痛みじゃない。そりゃそうだ、五感である痛覚はテレパシーには反応しない。
反応するのは第六感。痛みの疑似体験で死を意識して、本能的な生の快感を呼び覚ます、それが「痛みの伝わるプロレス」であり、格闘技の醍醐味でもある。


だから俺は平和主義者で理想郷に咲くお花畑住人の左翼だけど、戦争を正当化して美化する衆の気持ちが分かるんだ。
あの時、死を背負って輝いてたんだろ?その輝きの疑似体験をしたいんだろ?
あるいは、戦争を想像してワクワクしてるんだろ?俺も輝きたいとか思ってるんだろ?


なんでもいいから死にたくない。どうでもいいから長生きしたい。だからちょっとでもリスクを犯したくない。
↑そんな良識にとらわれた社会の中じゃ命の輝きは実現しないよなー。
そして何よりやばいのは、良識社会のせいで、せっかく死にかけても命の輝かせ方をすっかり忘れさせられていること。みんな死んでるみたいに生きてること。

俺は死んでるみたいに生きたくないだけ。