うんぷてんぷ

静岡ではすっかりおなじみのアクロバットパフォーマー・サブリミットと肉体派津軽三味線プレイヤー・セ三味ストリートと和の曲芸の達人・仙丸によるユニット。
ジャパニーズサーカスシアターと銘打ってる通り、そのテーマは和。


大道芸ワールドカップin静岡は「和芸虐待」と言われることもあるんだけど、古っぽかったり、郷愁があったり、いかがわしかったり、そういった雰囲気はとことん排除して、西洋風の明るく楽しいイベントという個性を創り上げようとしている。
その事自体はアイデンティティ確立の試みとして悪いとは思わない。
ただ俺はやはりそこで切り捨てられるようなものが好きだから、残念だと思うし、だからそういったものが丁寧に扱われる大須大道町人祭に行ったりもする。
俺はそれでいいけど、静岡の人が大道芸=ワールドカップであり、ワールドカップに出れないものは存在しないものとか低レベルのもの、という間違った印象を持つことには危機感を感じている。


セ三味ストリートと仙丸は過去にオン部門での出場実績がない。静岡風に言えば「オフレベルのパフォーマー」だ。
サブリミットが過去にワールドカップで銅賞を取っていなければ、うんぷてんぷがオン部門としてこれだけ多くの人の目に付くことはなかったはずだ。


そのサブリミットも当初は今とは違った雰囲気で昔あったジャパンカップに出場してブービーだったりした過去がある。それがいまのような「(静岡でも)高評価」を得られたきっかけは海外経験から得られた日本人としての心を前面に押し出すことにしたからだろう。
そしてその心の延長にうんぷてんぷがあるに違いない。



そもそもサーカスの始まりは古代ローマに始まるらしい。円形競技場における人間と猛獣との格闘がやがて人間と猛獣によるショウとなり、近代には道化師がパントマイムの要素を持ち込み、俺達が「サーカス」と認識する興行が完成した。
西洋におけるサーカスには動物、それも猛獣が欠かせないものだった。


1994年だったか、静岡に末期の国際サーカスが来た。今の東静岡駅のある場所に1000人は入ろうかという大きな仮設テントを設営して、俺が見に行った日は水曜日の昼だったこともあってか、客は4人だった。
そんな興行でも動物のショーがあった。なんかスピッツみたいな小さい犬が手押し車を押して終わった。ステージには「那須サファリパーク」と刺繍された布がかけられていた。




その昔、サーカスは身近に動物を見れる珍しい機会だった。当時のサーカスの雰囲気を伝える貴重な写真がある。

動物園など近くにありませんでしたので、こうして身近に象や猛獣などを見る機会は、子ども達も興奮したでしょうね。

記憶の扉 カキヌマサーカス団 1957年9月

日本にはサーカス団が30あったと言われているが、娯楽の多様化によりその役目は終わった。


もちろん世界的に同じ流れがあった。その中でサーカス先進国のフランスではヌーボーシルクという概念が生まれた。シルク=サーカス、ヌーボー=ニュー、新しいサーカスという意味だ。
怖いもの見たさの好奇心をくすぐって珍しいものを見せるスタイルから脱却して、人間の肉体を極限まで作り上げ、人間の技術を極限まで鍛えあげ、演出を芸術まで作り込む。
その成功例が東京ディズニーランドでも驚異的な動員力をたたき出すシルク・ドゥ・ソレイユである。


しかし日本には古くからヌーボーシルクの原型とも言うべき興行が存在した。
軽業である。
サーカスとは切っても切り離せなかった動物を最初から使わず、軽業師は肉体と技術だけで観客を魅せていた。屋台のような小屋掛けで見せる綱渡り、樽の上を初めとするバランス芸、曲独楽などがメインだったようだ。
今では軽業興行そのものを見ることは出来ないが、当時の雰囲気は落語の中で「軽業」「軽業講釈」などの演目で今も生き生きと輝いている。

「軽業」のクダリは23分06秒あたりから。


サーカスといえば俺の世代では500人・1000人入る大きなテントでの興行しか体験がないが、軽業の興行の多くはちょっとしたお祭りに出てきていた見世物小屋と同じ規模の屋台の小屋で行われていただろうことが推察できる。




そこまで思ってうんぷてんぷのパフォーマンスを見る。
観衆の輪の大きさはちょうど見世物小屋と同じ大きさだ。心のなかで周囲に柱が立って、天と周囲に幕がかけられる。どこかから三味線と呼び込みの声が聞こえる。
うんぷてんぷのパフォーマンスは和でありながら決して古くない、生き生きとした今の時代の日本の心が表現されていることがよくわかるはずだ。昔の軽業小屋が、その時の日本の心を表現していたように。
その証拠に、はじめから終わりまで手拍子が途絶えることがない。