悪人

静岡東宝4階で19:20の回。
客入りは10人。


この映画と同類の映画に、シャーリーズ・セロンアカデミー賞を取った「モンスター」つー映画がある。あれはモンスターで、これは悪人。言葉は違えど同じものを描いている。

ただ、あちらのモンスターはモンスターの視点でモンスターではないことが描かれて救われなかったのに対して、こちらの悪人は様々な視点で悪人ではないことが描かれて救いがある。

その差は犯した罪の自己正当化をするかどうかに起因している。いや、罪を分かち合う人が存在してくれるかどうかにかかっているというべきか。


詰め込みすぎた部分がやや消化不良を起こしているようにも感じられた。祐一のババアの健康商法がらみの話、善意の人間が悪徳商法を支えてるところなんかは、映画観てるだけじゃ通じないのでは?

とはいえ139分という一般的な映画に許された長さを最大限に生かして、実に多くのものを描こうとして、その目的はほぼ達せられたというべきで、賞賛に値するべき作品だ。


一番大きなテーマは悪とはなんだろう?ってことなんだけど、この点について俺ははっきりとした考えを持っていて、この映画が発するメッセージ性にはなんの感慨もない。

追い込まれて犯した罪の違法性は相当部分阻却されるべきだと思う。人間なんてものは弱いもので、その場になってみなけりゃどうするかなんて分かったもんじゃない。それは追い込まれた経験と、その時の自分と正面から向き合った経験を持つ者だけが達する境地。

罪に問われるのは、その時の行動じゃない。行動の結果なんだよ。結果から罪は導き出される。


本作では祐一とマスオがその対比を演じる。マスオは猛吹雪の中でもクソ女は蹴り出しただろう。その時に殺人の罪に問われるのはマスオだし、そのことに気づいたからカプセルホテルでガタガタ震えてたわけで。

同じ行為をしても、罪に問われたり問われなかったり、善人だったり悪人だったり、理解されたりされなかったり。本当にクソだ。


これが光代視点になると、こんどは寂しさとはなんだろう?ってテーマが絡んでくる。

この女、はっきり言ってだめんずうぉーかーとかいう存在なんだろうけど、絡めれば誰でもいいんだろう。誰でもいいけど、一度絡んじゃえばそれを唯一絶対化して後付の理屈で愛を語ったりしやがる。

まして今回は殺人犯相手で自己陶酔。本当にクソだ。


佳乃視点で言うと、幸せってなんだろう?ってテーマ。

基本、リア充なんだよな、この女は。傍若無人だからこそ手に入れたいものを全て手に入れて、周りがどう思おうと知ったこっちゃない、自分だけの幸せ。本当にクソだ。


出会い系の存在する意味にしても、介護負担にしても、マスコミにしても、田舎のチェーン店文化にしても、年寄りを取り込む健康商法にしろ、弱い人間の弱みにつけこんで利用する、下手をすれば弱い人間を弱い人間を食う手段として使って食いあわせ合う、本当にクソでクソでクソばっかだ。クソな国に住むクソな国民のクソな文化とクソな生活を描いた、素晴らしきクソ映画だ。

生臭い吐息と生ぬるい体温を感じるためだけの生々しい行為を愛だと糊塗するのと同様の視点で、なにか理屈付けてこの映画から人間のなにかを読み取ろうとしたって時間の無駄だと思う。