グスコーブドリの伝記

2012年公開作品の中で俺が一番期待していた「グスコーブドリの伝記」が公開され、興行的には241スクリーンで興収6000万に届かない大惨敗、評判も最悪という事態に陥っている。




1985年に公開されて評判の高い「銀河鉄道の夜」と同じ手法で制作されるということで期待が大きかったはずなのだが、残念ながらそこまでの評価にまったく至らなかった。

ただ、それはネット評で言われるところの出来の悪さによるものではなく、一般的には理解されにくい世界観を描いてしまったところによるものが大きかったのだろうと思う。



というのも、宮沢賢治の好きな俺が受け入れ難い世界群にある作品がこのグスコーブドリの伝記であり、その俺がこの映画を素晴らしいと思ってしまった以上、逆にグスコーブドリの伝記の世界が素晴らしいと思っている層には評価されないのは当然だろう。



この映画に対する批判にもいくつかの種類があるけど、その中でまったく聞く値打ちのない話がある。それは例えば

188 名前:名無シネマ@上映中[sage] 投稿日:2012/07/10(火) 23:56:30.49 id:xMYq8aAl

夢のシーンはほんとに何が言いたかったんだ

変な妖怪みたいの出てくるしそういうのだしたら登場人物猫にした意味無いやん



「夢」のシーンって明らかに「ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記」の世界なのよ。未完だからあまり知られてないけど。

このネネムとブドリは表面上は実によく似ている話で、それでいて実はまったく正反対の話。

つーか、なんらかの納得がいかずに9割方出来上がっていたネネムを放棄して、そのセカイを借りてブドリを作った宮沢賢治の葛藤を俺は重く受け止めたい。

ネムは本当にユーモラスで、社会の矛盾を突いた傑作だったはずなんだよ、完成していたら。



ネムの中で俺が一番気に入っている場面を少し引用する。

要はバケモノがマッチの押し売りをしているわけだ。世界裁判長であるネネムはそのバケモノをとっ捕まえるのだが、バケモノは脅されて仕方なくやっているという。その脅している奴を捕まえると、自分もまた親方に借金があって監視をされてやむを得ずやっているのだと。その親方をとっ捕まえると、さらにそいつを使ってる奴がいる。延々さかのぼってとっ捕まえたら30人もいた。その30人目に聞いてみると、29人目に貸しがあるから取り立ててるだけで、それを取り立ててるだけだと。

最後にネネムはこう言う。

「これは順ぐりに悪いことがたまって来ているのだ。百年も二百年もの前に貸した金の利息を、そんなハイカラななりをして、毎日ついてあるいてとるということは、けしからん。殊ことにそれが三十人も続いているというのは実にいけないことだ。おまえたちはあくびをしたりいねむりをしたりしながら毎日を暮らして食事の時間だけすぐ近くの料理屋にはいる、それから急いで出て来て前の者がまだあまり遠くへ行っていないのを見てやっと安心するなんという実にどうも不届きだ。」

これはまさに資本主義の矛盾そのものである。いや、矛盾か?資本主義の裸の真実だよな。

まさに宮沢賢治の生きた時代というものは資本主義の萌芽が見えた時代であり、それは農村に生きる賢治にとって決して好ましいものではなかった。



宮沢賢治は資本主義がもたらす社会問題に対して逃げずに取り組み、それは農民芸術を通じた社会教育とも受け取られる活動でもあり、あるいは国柱会から日蓮宗に通じる宗教活動として形になってるわけだ。この辺は本題から外れるからあえて大雑把に書くけど。



いずれにせよゼニがゼニを生む資本主義に対する概念として社会主義なり共産主義なりが活発に活動していた時代、宮沢賢治はそれらの活動とは一線を画し、むしろ宗教に傾倒した晩年においては全体主義との親和性を指摘される存在となる。

グスコーブドリの伝記はまさにその晩年の作品であり、自己犠牲を全面に出したストーリー性は全体主義の色合いを濃く感じさせるものと言える。


今回の映画の中で原作との改変を指摘される部分がいくつかある。


千と千尋の神隠し」を思わせるネネム世界の挿入の他にも、例えば妹のネリが死んだままになってるとか、火山特攻を志願した時の自己犠牲アピールのやりとりがないとか。

俺はそういうのが嫌だし、その嫌だという気持ちを制作陣と共有できているのだと思う。



ただ、本作において一番指摘しなければならない改変は、こんなクソお涙頂戴的な無意味な憐憫三昧がなくなったことではなくて、「てぐす工場」の崩壊の場面の改変なんだよ。

原作では火山が噴火してその降灰で蚕が死んでいく。その気候変動がラストへの伏線にもなってるんだけど映画では全く違う。



映画では蚕がまゆを作り、繭からテグス糸が取れ、その糸で蚕から羽化した蛾が飛んで行かないように、網を張る。網の中に残った蛾が蚕を産み、テグス糸が取れるという循環。逆に言えばこの拡大政策が一歩間違うと破綻するわけだよ。

つまりな、富が富を産み、富を産まなければ破綻する、まさに資本主義の姿がここに描かれてるわけだ。



この時代の賢治が放棄した資本主義批判がここに挿入されている点で、制作者である杉山キザブローの意図というものがハッキリしてくる。



この作品は世間が期待しているような自己犠牲を強要する「感動的」な童話ではない。明らかに賢治が初期に行なった社会に対する洞察の肯定であり、宗教に傾倒して政治や経済から離れた賢治が成し得なかった社会変革を模索する道筋である。


その意味でこの映画はある意味、傑作だと確信する。