twitterで「なう」を多用するオタクは「ふたなり」である

やっぱりさー、twitterで「なう」って使う奴は頭がおかしいよね。
それは産経新聞twitter見ても一目瞭然じゃん?
http://twitter.com/SankeiShakaibu/

さて。そろそろ、中の人が交代しますー。皆さんお付き合いいただいて、ありがとうございました!できればあしたの朝刊も見ていただけるとうれしいです2:12 AM Aug 31st webで

と、ここまではまともな人だった。そして交代した中の人が「なう」オタク。

帰宅なう5:33 AM Aug 31st webで

産経新聞が初めて下野なう5:34 AM Aug 31st webで

でも、民主党さんの思うとおりにはさせないぜ。これからが、産経新聞の真価を発揮するところ。5:36 AM Aug 31st webで

おお、典型的な勇ましいオタクのネトウヨ
結局、反日絶ってから、じゃねーや、半日経ってから

 下記の発言について、たくさんの厳しいご意見をいただきました。軽率な発言だったと反省しています。ご不快の念を抱かれた方には、お詫び申し上げます。5:15 PM Aug 31st webで

ってなことになるわけだ。なうオタクの尻拭いも大変だわ。

なぜナウやnawではなく「なう」なのか〜twitterのなんとかなう問題
http://d.hatena.ne.jp/RRD/20090727/1248682147

というエントリを以前書いたら、案の定オタクの琴線に触れたみたいで、削除しろとかネット特有の万能感に泥酔した、上から目線で評論厨のような、気の触れたようなコメントがいまだに書きなぐられたりしてる。
件のエントリでは「なう」を使うのは、オタク文化が「かわいさ」を追求するからであって、女性性や幼児性との親和性が強く、そこにキモイ男とのギャップが生じる、ということを一旦の結論にした。


ただそのときも、なにかこうtwitter全体に対する既視感のようなものを感じていて収まりが悪かったんだけど、ようやくその正体に行き着いたんだわ。

「今、ご飯食べてるの」
「あ、今、トイレ入ったとこ」
「朝刊が来たよ。あんたんとこは?え?読売?うち朝日。ね、一面トップ、そっちは何?うーん、紙風の違いが如実ね。見出し読んでみてよ」
と実況中継をやっている。
向こうでも、コーヒーをいれただの、夜が明けてきただのと実況中継している。


中略


「ねえねえ、そのうちにインカム式の携帯用超小型電話ってできると、おもしろいわね。超小型だから、着装しても目立たなくて、口元に絹糸並みの送話機がちらっと見えるだけなのよ。みんな、日常生活でも、それを着装するのが普通になって、街を歩くときも食事してるときも、終始ぶつぶつ言ってるの。集音効果が抜群だから、呟いたり囁いたりするだけで、通話できるのよ。今よりもっと、排他的な世の中になるわね。日常生活してるときも現実無視して、興味のある人としかしゃべってないんだもん。うーん、世紀末的」

後の携帯電話とtwitterである。


世紀末的、という感想からも分かるとおり、この文章が書かれたのは前世紀。1987年。著者は氷室冴子

冴子の東京物語冴子の東京物語

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1987 年にはwebはもちろんのこと、電子メールみたいな、未来的なテキストベースでの情報伝達という概念自体は素人にはなかった。(オタクはパソコン通信ワープロ通信で草の根BBSとかをやってたけど)手紙とかは既に時代遅れになりつつあって、音声や映像だけが進化していくものだとばかり思っていた。
正直言って、2009年にもなってキーボードを叩いてるとは思わなかった。いい加減、音声入力させてくれ。そんななか、唯一未来的だと思えるのはマウスなんだけどね。


つーか1987年なんてそもそも携帯電話が初めて日本にお目見えした年。それだって携帯するどころか、ドイツの通信兵が持ち運びするような形だったと思う。
http://www.ms-plus.com/search.asp?id=13754


そのうち、目の前で殺人事件が起こって、犯人が逃走するときにも「うわっ、殺人よ。うん、人が殺されたぁ、きゃー、こわい。警察に知らせなくちゃ。うんうん、こんな経験初めてよう」なんておしゃべりに夢中で、犯人追っかけずにしゃべり続けたりして。わ、現代の閉塞状況をスルドク抉ってる。このアイディア、いい?ショートショートで書けるかな?

後の加藤の乱こと、秋葉原連続殺傷事件である。


とか書くと、あれはマスゴミが恣意的に編集した光景だ!実際はみんな献身的に助けようとしてたのに!とかいう反論が絶対出るだろうから先に書いておくと、氷室冴子の冗談ほどはオタクもまだひどくはないよね。
論点はそこじゃなくて、そのあとのこっち。

でも、主人公は女の人でなきゃ成り立たないかもねぇ。

引用したエッセイはなにを書いた話なのかといえば、私は長電話が好きで始末に終えない、という内容。
ここで、twitterと長電話は同じことをしてるんじゃねーの疑惑が浮上するわけだ。俺がtwitterに感じた既視感の正体はこれだ。
ネット時代以前の長電話ってのは女性の専売特許、めそめそ長電話する男なんざ、いなかった。
ところがネット時代の現代はどうだ、男も女もめそめそtwitterやってやがる。


つまり、twitter文化の根底に幼児性はなくて、あるのは女性性なんだ。
もう少し突っ込んで考えると、オタク文化が追求する「かわいさ」はオタクの女性性の表れなんだとも言える。
オタクのジャンルに「ふたなり」というのがあって、両性具有のことだけど、肉体的にはともかく、オタクの感覚は既に「ふたなり」になってるのではないかとも思う。


あるいは草食系男子論みたいのが一時期盛り上がって、ばかばかしいなーと思って見てたんだけど、草食男子の正体ってのは実は「ふたなり」なんじゃねーの?つまり、頭の中で男と女が競合した結果として無力化してしまったみたいな感じで。


このオタクの感覚の女性化について誰か何か書いてるのだろうか、と思って調べてみると、2年も前から書いてる人がいた、あるいはそこでの引用の中で、それこそ氷室冴子の時代から「エロマンガの読者・作者は実は女の子になりたいんじゃないか」という指摘があったようなので、これ以上書くのはやめとく。
http://d.hatena.ne.jp/kaien/20070805/p1
http://qune.cside.com/archives/000752.html
http://qune.cside.com/archives/000764.html